テル子のおはなし

エッセイとかコラムとか

東京に住んでいた私の「311」

2011年3月11日。

東日本大震災

私はその頃東京に住んでおり、親族や友人にも大きな被害はなかった。そんなヤツの震災レポなどどこにも需要はないだろうが、単純に自身の備忘録として記録しておこうと思う。

 

ちなみに、3月11日に合わせていないのは、11日を過ぎた頃に「書いておこうかな」と思ったというだけであり、特に意味はない。

 

*****

 

■14:00

私はその日、東京の麹町にある小さい飲食店(閉店済)でアルバイトをしていた。昼は定食屋、夜は居酒屋になるタイプの店舗で、従業員は私とアルバイトのAちゃん、マネージャー、板長の4人。

店は14時にいったん閉店し、4人で賄いを食べ、アルバイト2人は帰宅する、という予定だった。

 

■14:46

賄いを食べている最中、味噌汁がゆらゆらと踊り出した。食事も終盤にさしかかり、味噌汁はやや冷めている。空気の膨張で動くにしては今更だ。

その直後、ぐらぐらと強い揺れを感じ、ここで初めて「地震だ」と気付いた。

 

アルバイト先の居酒屋は地下1階にあったため、このまま揺れが強くなったら埋まると思ったのか、アルバイト仲間のAちゃんが真っ先に外に飛び出した。おっとり系の女の子だったが、今まで見たことがないスピードで動き階段を駆け上がっていったことに驚いた。

「こういう察しのいい子が窮地を生き残るんだろう」

揺れながら、心底感心したのを覚えている。

私を含め残りの3人も、彼女に続いて店から飛び出した。

 

■14:50

店の前にあるのは、6車線ほどある大通り。道の真ん中には細い中央分離帯があり、付近のビルから逃げ出してきた大勢の会社員が、その中央分離帯に集まっていた。我々も同調し、中央分離帯に避難する。いつもは自動車がビュンビュン通っているが、確かそのときはほとんどの車が停車していた。

 

■15:00

幾度かの余震があり、そのたびに周囲のビルがぐあんぐあん揺れる。このビル群が道路側に倒れてきたら、私含め数百の人間が犠牲になっていたことだろう。

ちなみに、外から見て一番揺れていたのは自分がいたビルだった。こんにゃくのようにぐにゃぐにゃしていて「こんなにうねっているのになぜ崩れないんだ?」と不思議だった。

 

■15:30(このあたりから時間感覚があいまいになる)

揺れが落ち着いたため、一同店に戻る。食器や酒瓶はほぼ無事だったが、大きく揺れたことでフライヤーの油が飛び出し、台所をびしゃびしゃにしていた。しっかり火が消えていたのは、さすが板長と言ったところか。

 

TVを付ける。震源は東北の方だということがわかり、

「東京でこの揺れだということは、東北はいったいどのくらい揺れたのだろう。」

と薄ら寒くなる。

 

そんなことを考えてぼーっとしていたら、

「今なら電車が動くかもしれないから、早く帰りな!」

マネージャーが気を利かせて、アルバイト2人を帰してくれた。いそいそと帰る準備をし、駅へ急ぐ。しかし当たり前だがどの路線も動いておらず、私とAちゃんは店にとんぼ返りすることになった。

このあたりで家族と連絡が取れ、皆無事であることがわかり安堵する。

 

■17:00

私はこの日バイトの掛け持ちをしており、17時から自宅近くのスーパーでレジ業務をする予定だった。しかしまったく帰宅できる気配がなく、スーパーの方に「今日中には帰れない」と電話をした。

 

居酒屋では夜の営業が始まる時間になり、もちろんのこと夜担当のバイトさんは来られない。そこで、帰る手段がない私とAちゃんはそのまま働くことになった。

この状態で店を開けるのかと一瞬思ったが、帰宅困難者にあふれている街中、帰れない従業員、営業できる店内となると、売り上げ的にも慈善事業的にも店を開けるのが正解なのだろう。実際、開店直後から店は満席になり、てんてこ舞いの忙しさになった。

 

レジの端にある小さい更衣室にあるテレビは、ひっきりなしに地震のニュースを流している。一番印象に残っているのは、

「●●海岸に数百人の遺体」

だった。正直、意味がわからなかった。

 

■23:00

慣れないながら仕事を続け、時間は深夜。丸ノ内線が動いたとの知らせを受け、私とAちゃんは駅に向かうことに。満席の店は、マネージャーと板長だけで回すことになる。申し訳ない気持ちと感謝を伝え、店を後にした。

駅はごった返していたが、なんとか動いていた。Aちゃんとは帰宅の方向が逆なので、ここでお別れ。生きてまた会おうと言い合った。

 

■24:00

なんとか新宿駅に着き、当時住んでいた府中市へ戻るべく、京王線のホームへ向かう。

人、人、人。

正月の鎌倉八幡宮くらいの人だ。私は普段なら、こういう「トイレに行けない状況」になるとほぼ100%腹が下るタイプなのだが、今思うとトイレに行きたいとは一切思わなかった気がする。極限だと尿意便意は引っ込むのかもしれない。

 

■25:00

ノロノロと駅構内を進み、やっと改札に近づいたと思ったら驚いた。自動改札が完全に停止し、駅員さんが横一列に並び、ロープを持って待機している。そして電車がくると、一斉にロープを上げ、ある程度人がホーム内に入るとロープを下げる。

しかも「切符はいりません!」と言っているではないか。

 

すでに終電は終わっている時間帯に電車を走らせているうえ、乗客全てを無料で家まで帰そうとしてくれているのだ。

なんてこと!

311において、「自分自身が体験したこと」の中で一番印象に残っているのは、この京王電鉄の頑張りであった。

 

■26:00

家に帰ることができたのは、夜中の2時過ぎ。当時住んでいた6畳1Kのアパート内は、聖闘士星矢のフィギュアが倒れていたくらいで、さしたる被害はなかった。

 

*****

 

私の「311」は、これにて終了。

このあと、バイト先の居酒屋は昼の営業を停止して私とAちゃんがお役御免になったり、悪しき買いだめ連中のせいでもう1つのバイト先であるスーパーの忙しさが天元突破したりといろいろあったが、そこまで大きな事件はなかったため、ここまでにしておく。

 

 

地震津波は、人の命を簡単に奪う。これらにあらがう術は今のところない。

かろうじてできることは、備えること。過去を忘れないこと。

備えあれば憂いなし……とは正直言い切れないが、それでも備えることには大きな価値と意味がある。

 

明日は我が身と思い、災害に備えよう。

私には、それしか言えない。