テル子のおはなし

エッセイとかコラムとか

10年前『ライス関町ファンミーティング〜追憶〜』に行ったはなし

お笑いコンビ「ライス」。

いわゆるシュール系コントを得意とし、『キングオブコント2016』では優勝もしている実力派コンビである。

 

10年以上前、YouTubeで無限大のライブ動画を見てから好きになり、そこからひたすらYouTubeで見まくり、吉本無限大ホール芸人たちにどっぷりとハマっていった。(今思うと、それらは違法アップロードだったような気がする……申し訳ない……)

 

ただ、実際にライブへ足を運ぶことはなかった。

貧乏1人暮らしでお金がないことが1番の理由だが、行ったら最後、ハマり過ぎてもう抜け出せないかもしれない、という恐怖もあった。それくらい、当時はライスを始め東京吉本の若手芸人が好きだった。

 

そんな中、ライス関町さんのTwitterで突如発表されたのが、以下だ。

 

2012年8月11日、下北沢シェルターワンドリンク制の無料ライブ『ライス関町ファンミーティング〜追憶〜』を開催する。

 

発表されたのは、ライブ開催日の数日前。たしか、急に会場に空きが出て、その穴埋めで無料ライブを開催するという流れだったような気がする。

その日の夜は新宿に行く用があり、夕方に行われるこのライブに寄る時間がちょうどある。また、無料+予約が不要なのも魅力だ。

 

この機会を逃したらもう会えないかもしれない。

そう思い、行くことにした。

 

トーク中心のライブだったが、観客の質問に答えるコーナーがあったり、関町さんが歌を歌うコーナーがあったり、飛び込みゲストで「少年少女」の坂口さん(現:トリオ「怪獣」のメンバー)が来たりと、これが無料でいいのかというほど充実したライブだった。

 

その中でも記憶に残り、今でも若干後悔しているのが、トーク中のワンシーン。

 

関町さん「みなさんの中で、一番好きな芸人はライス関町だ、という人は手を挙げてください。」

 

ドキッとした。

好きな芸人はたくさんいる。ライスはもちろんだが、当時はライセンス・サカイストLLRラフ・コントロールチーモンチョーチュウエリートヤンキー・犬の心などなど……その時代、無限大ホールを拠点としていた面々がまるっと好きだったからだ。

また、ライスの中でも関町さんと田所さん、どっちがより好きかと問われたら……?

 

そんなことが一瞬頭をよぎり、手を挙げ損ねてしまった。そして周囲を見てみると、手を挙げている人もいればいない人もいた。それに対し、関町さんは自虐気味のコメントをしていたと思う。

 

せっかく私たちを楽しませてくれているのに、逆に悲しませてしまった。

あの場での正解は、ビシッと手を挙げることだったのではないか。悩んだのは事実だが、間違いなく大好きなのだから。

 

 

そんなこんなで、楽しいミーティングは幕を引いた。あのときにしっかりと手を挙げなかったことへの後悔と、参加してよかったという温かい気持ちを胸に、私は夜の新宿へと向かった。

 

ちなみに、リアルで見る関町さんは意外と大きく、そしてよりかわいらしく見えた。(関町さんかわいいよね。)

 

 

これが2012年のこと。

そこからもライスのことは大好きで、2016年に『キングオブコント2016』決勝に出場した際はもちろんリアルタイムで視聴し、優勝が確定したときは涙した。隣で見ていた夫は若干引いていた。

 

 

ライスは、もっともっと売れていい。

だって2人とも愛らしいし、コントもトークも本当におもしろいんだから!

 

ライスのYouTubeチャンネルはこちら。

無限大時代の映像をUPしてくれたときは、嬉しすぎて泣いた。

www.youtube.com

 

私が一番好きなコントは、「バナナ」です。

www.youtube.com

 

あと、4月9日の「キングオブコントの会」にライスが出るのでぜひ見てください。

10年以上前のお笑いライブで見た「三四郎」

20歳そこそこの頃、私は人生に迷走していた。大手声優事務所の養成所に通うも所属には至らず、夢を追うか諦めるか、はたまた違うエンタメ職を目指すかなど、四六時中悩んでいた。

 

そこである日、同じ境遇の友人と一緒に思い立ったのが、お笑い芸人になろう!だった。

 

結局、ネタを考えるどころかコンビ名すら決めないまま計画は霧散してしまったので、ほぼ何もしていないのだが、唯一したことが、マセキ芸能社のライブを見に行くことだった。

 

芸人になるならお笑いの事務所に入ることを第一目標にしようとなり、なんとなくよさそうという理由だけでマセキを選んだ。

当時は、マセキのオーディションを受けるために、マセキ主催のライブの半券が2枚必要だった。そこで、相方(になる予定だった友人)と一緒に、マセキ主催のライブを見に行ったというわけだ。

 

マセキのサイトを見ると今は10種類ほどのライブがあるようだが、当時は3種のライブがあった。

 

Aライブ:TVに出るようなレベルの有名芸人が出るライブ

Bライブ:ちょっと有名?ユース所属?の芸人が出るライブ

Cライブ:かなり若手が出るライブ

※ライブ名忘却。

 

このような感じで、3種類に分かれていた。

私が行ったのは、Cライブ1回、Aライブ1回。初めて行ったのは、Cライブ。確か「オリーブゴールド」という名前で、調べたら現在も同じ名前のライブが行われているようだった。

 

10年以上前のことなのでもう記憶が曖昧だが、若手だからとしらけることはなく、どの芸人もしっかりおもしろかったのを覚えている。これが低価格で楽しめるなんてお得だ!と感じたものだ。(確かチケットは1,000円程度だった)

 

演者もネタもほぼ覚えていないが、出演していた芸人の中で唯一覚えているコンビがいる。

それが「三四郎」だ。

 

当時はまだ若手中の若手で、TVで見たこともなければ名前も聞いたこともないコンビだったが、出演者の中でひときわおもしろい漫才を披露してくれた。ライブが終わった後も、相方と三四郎が特におもしろかった」と言い合った。

ネタの内容は忘れても「三四郎」という名前だけは忘れなかった。

 

そして今、「三四郎」は飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍している。バラエティー番組はもちろんのこと、ラジオの冠番組も好調のようだ。

 

あの頃おもしろかった「三四郎」が、ちゃんと売れたのが嬉しい。

また、お笑い界というものが、おもしろい人が売れる世界であるということも、イチお笑いファンとしてとても嬉しい。

(もちろん、おもしろいのに売れない人も星の数ほどいるだろうが……。)

 

 

三四郎」のこれからも楽しみだ。

昨今のエイプリルフール文化に対する気持ち

先に断っておくが、たいした話ではない。

 

近年、エイプリルフールになると各企業がこぞってSNSにネタを投下する。少し前までは私も楽しんでいたが、最近は何が嘘で何が本当の情報なのかをいちいち考えるのがめんどうになり、ここ数年はやや冷めた感情で4月1日を過ごすようになった。

 

しかし、エイプリルフールネタに便乗して、あれやこれやとポジティブに楽しんだ方がいいに決まっている。その方が人生楽しかろう。オタクだし。

それなのに、それができなくなっているのは、エイプリルフール文化が過熱しすぎた裏返しか、はたまた私自身の“老い”なのか。

 

まだ、ギリアラサー。

老いるのはまだ早い。と、思いたい。

桜(たくわ)・たんぽぽ(たんぽぽん)

子どもはよく言い間違いをする。

口がうまくまわらない、間違えて覚えているなど、理由はさまざまだ。

 

中でも、かわいいのが

ヘリコプター→ヘリポクター

とうもろこし→とうもころし

これだ。

このようにアルファベットに直した時に子音が入れ替わって発声することを、音位転換(メタセシス)というらしい。幼児期にしか見られない、不思議な現状なのだそうな。

 

 

うちのムスコッチャンが2歳くらいの頃しきりに言っていたのが、

桜→たくわ

たんぽぽ→たんぽぽん

この2つ。

春になると思い出すが、5歳になった今、桜もたんぽぽも普通に発音している。

しかし親の私はあの頃が懐かしく、たくわとたんぽぽんを使ってしまう。

 

「ほらムスコ、たくわが咲いているよ。」

「桜だよ!」

「ほらムスコ、足元にたんぽぽんがぽんぽんしているよ。」

「たんぽぽだよ!!」

 

子の成長は嬉しいものだが、寂しいものでもある。

たどたどしい口調の「たくわ」と「たんぽぽん」は、もう聞けない。

創作活動をしていない自分に感じる、焦りのようなもの

最近はろくにオタ活ができていないが、私はれっきとしたオタクである。

オタクと一言で言ってもその範囲は膨大だが、アニメ漫画ゲーム系の、いわゆるオタク然としたオタクだ。ちなみ見た目もちゃんと地味なデブスオタクだ。ついでに腐女子だ。

 

そういう路線のオタクであり、近い友達は皆絵を描いたりコスプレをしたりなんだりしていたものだから、自分も10代~20代前半の頃は創作活動や表現活動に勤しんでいた。

あの頃は、本当に楽しかった。

 

でも今はどうだ。

子育てやらなにやらにかこつけて、ほとんど創作活動ができていない。ブログやカクヨムもちょろっとしか書いていないし、絵日記も開店休業状態だ。

 

ゲームはするし漫画も読むが、創作活動をしていないというだけで、何か焦りのようなものを常に感じている自分がいる。

何も生み出していない自分を、無価値だと感じるようになっている。もともと自己肯定感が0だからか、その精神状態に拍車がかかっている感じだ。

 

ただ、この世の中でどんな形であれ「創作活動」をしている人間は、おそらく一握りだろう。

オタクとして狭いコミュニティで生きていると、創作活動はわりと日常的にするもののような感覚になってしまうが、たぶん世間一般はそうじゃない。

 

 

創作活動をしない自分を責める必要は、本来ないはずだ。だって、そもそも誰からも求められていないもの。

創作活動をするからエライ、しないからワルイ、なんてのは、私の思い込みだもの。

 

 

これ、共感してくれるオタクはいるのだろうか。

いたら、ぜひ教えて欲しい。友達になりたい。

「幼稚園のアイテムに名前を付ける作業」のはなし

幼稚園で進級するにあたり、小さくなっていた体操服を買い換えた。

年中から年長へ、MサイズからLサイズへ。

Mは友人の子にあげるために、名前シールをていねいに剥がし、漂白と洗濯をする。

Lには、新しいクラス名を書いた名前シールを貼り、補強のために縫う。

 

この「名前付け」は地味な作業なうえ、かなりめんどうだ。

春になると、保育園・幼稚園の準備でめんどうな作業No.1!みたいな触れ込みで拡散されることもある。

 

しかし、私はこの作業が嫌いではない。むしろ好きである。

もちろんめんどうだし、私は激烈不器用なので、上記のような針と糸が必要なタイプの名前付けだと、針がグサグサと指に刺さり、誇張なしに手が血だらけになってしまう。

 

そんな体たらくなのに、なぜ好きと言えるのか。それは、子どもの成長をダイレクトに感じる事ができるからだ。

 

保育園・幼稚園に入園する前なら「ああ、園に入るんだな」と思いながら1つ1つのアイテムに名前を付ける。

進級なら「大きくなったな」と感じながら、買い換える・買い足すアイテムに名前を付ける。

自分が子どもを想って付けた名前が、各アイテムに記されていくのは、とても感慨深い気持ちになる。

 

 

我が子が成長する喜びと、一抹のさみしさを感じながら、私は今日も指に穴を空けるのだ。

東京に住んでいた私の「311」

2011年3月11日。

東日本大震災

私はその頃東京に住んでおり、親族や友人にも大きな被害はなかった。そんなヤツの震災レポなどどこにも需要はないだろうが、単純に自身の備忘録として記録しておこうと思う。

 

ちなみに、3月11日に合わせていないのは、11日を過ぎた頃に「書いておこうかな」と思ったというだけであり、特に意味はない。

 

*****

 

■14:00

私はその日、東京の麹町にある小さい飲食店(閉店済)でアルバイトをしていた。昼は定食屋、夜は居酒屋になるタイプの店舗で、従業員は私とアルバイトのAちゃん、マネージャー、板長の4人。

店は14時にいったん閉店し、4人で賄いを食べ、アルバイト2人は帰宅する、という予定だった。

 

■14:46

賄いを食べている最中、味噌汁がゆらゆらと踊り出した。食事も終盤にさしかかり、味噌汁はやや冷めている。空気の膨張で動くにしては今更だ。

その直後、ぐらぐらと強い揺れを感じ、ここで初めて「地震だ」と気付いた。

 

アルバイト先の居酒屋は地下1階にあったため、このまま揺れが強くなったら埋まると思ったのか、アルバイト仲間のAちゃんが真っ先に外に飛び出した。おっとり系の女の子だったが、今まで見たことがないスピードで動き階段を駆け上がっていったことに驚いた。

「こういう察しのいい子が窮地を生き残るんだろう」

揺れながら、心底感心したのを覚えている。

私を含め残りの3人も、彼女に続いて店から飛び出した。

 

■14:50

店の前にあるのは、6車線ほどある大通り。道の真ん中には細い中央分離帯があり、付近のビルから逃げ出してきた大勢の会社員が、その中央分離帯に集まっていた。我々も同調し、中央分離帯に避難する。いつもは自動車がビュンビュン通っているが、確かそのときはほとんどの車が停車していた。

 

■15:00

幾度かの余震があり、そのたびに周囲のビルがぐあんぐあん揺れる。このビル群が道路側に倒れてきたら、私含め数百の人間が犠牲になっていたことだろう。

ちなみに、外から見て一番揺れていたのは自分がいたビルだった。こんにゃくのようにぐにゃぐにゃしていて「こんなにうねっているのになぜ崩れないんだ?」と不思議だった。

 

■15:30(このあたりから時間感覚があいまいになる)

揺れが落ち着いたため、一同店に戻る。食器や酒瓶はほぼ無事だったが、大きく揺れたことでフライヤーの油が飛び出し、台所をびしゃびしゃにしていた。しっかり火が消えていたのは、さすが板長と言ったところか。

 

TVを付ける。震源は東北の方だということがわかり、

「東京でこの揺れだということは、東北はいったいどのくらい揺れたのだろう。」

と薄ら寒くなる。

 

そんなことを考えてぼーっとしていたら、

「今なら電車が動くかもしれないから、早く帰りな!」

マネージャーが気を利かせて、アルバイト2人を帰してくれた。いそいそと帰る準備をし、駅へ急ぐ。しかし当たり前だがどの路線も動いておらず、私とAちゃんは店にとんぼ返りすることになった。

このあたりで家族と連絡が取れ、皆無事であることがわかり安堵する。

 

■17:00

私はこの日バイトの掛け持ちをしており、17時から自宅近くのスーパーでレジ業務をする予定だった。しかしまったく帰宅できる気配がなく、スーパーの方に「今日中には帰れない」と電話をした。

 

居酒屋では夜の営業が始まる時間になり、もちろんのこと夜担当のバイトさんは来られない。そこで、帰る手段がない私とAちゃんはそのまま働くことになった。

この状態で店を開けるのかと一瞬思ったが、帰宅困難者にあふれている街中、帰れない従業員、営業できる店内となると、売り上げ的にも慈善事業的にも店を開けるのが正解なのだろう。実際、開店直後から店は満席になり、てんてこ舞いの忙しさになった。

 

レジの端にある小さい更衣室にあるテレビは、ひっきりなしに地震のニュースを流している。一番印象に残っているのは、

「●●海岸に数百人の遺体」

だった。正直、意味がわからなかった。

 

■23:00

慣れないながら仕事を続け、時間は深夜。丸ノ内線が動いたとの知らせを受け、私とAちゃんは駅に向かうことに。満席の店は、マネージャーと板長だけで回すことになる。申し訳ない気持ちと感謝を伝え、店を後にした。

駅はごった返していたが、なんとか動いていた。Aちゃんとは帰宅の方向が逆なので、ここでお別れ。生きてまた会おうと言い合った。

 

■24:00

なんとか新宿駅に着き、当時住んでいた府中市へ戻るべく、京王線のホームへ向かう。

人、人、人。

正月の鎌倉八幡宮くらいの人だ。私は普段なら、こういう「トイレに行けない状況」になるとほぼ100%腹が下るタイプなのだが、今思うとトイレに行きたいとは一切思わなかった気がする。極限だと尿意便意は引っ込むのかもしれない。

 

■25:00

ノロノロと駅構内を進み、やっと改札に近づいたと思ったら驚いた。自動改札が完全に停止し、駅員さんが横一列に並び、ロープを持って待機している。そして電車がくると、一斉にロープを上げ、ある程度人がホーム内に入るとロープを下げる。

しかも「切符はいりません!」と言っているではないか。

 

すでに終電は終わっている時間帯に電車を走らせているうえ、乗客全てを無料で家まで帰そうとしてくれているのだ。

なんてこと!

311において、「自分自身が体験したこと」の中で一番印象に残っているのは、この京王電鉄の頑張りであった。

 

■26:00

家に帰ることができたのは、夜中の2時過ぎ。当時住んでいた6畳1Kのアパート内は、聖闘士星矢のフィギュアが倒れていたくらいで、さしたる被害はなかった。

 

*****

 

私の「311」は、これにて終了。

このあと、バイト先の居酒屋は昼の営業を停止して私とAちゃんがお役御免になったり、悪しき買いだめ連中のせいでもう1つのバイト先であるスーパーの忙しさが天元突破したりといろいろあったが、そこまで大きな事件はなかったため、ここまでにしておく。

 

 

地震津波は、人の命を簡単に奪う。これらにあらがう術は今のところない。

かろうじてできることは、備えること。過去を忘れないこと。

備えあれば憂いなし……とは正直言い切れないが、それでも備えることには大きな価値と意味がある。

 

明日は我が身と思い、災害に備えよう。

私には、それしか言えない。